40の手習い~人付き合いを学ぼう~
息子の心配ばかりしている場合ではない。
私のほうが、あるいはアスペルガーとか、自閉とかは、実は重症なのである。少なくとも、自分の子供の頃を思い出すと、息子の異常行動よりもはるかに異常であった。ただ、不登校とか暴力というめだつことをしなかったために周囲は気づかなかったようなのだ。
小学生くらいまでの私は、本当にコミュニケーションができない子だった。息子以上に人の顔は覚えられなかったし、あいさつも、電話の受け答えもできなかった。思えば、子供の頃、あまり人と遊んだ記憶も、笑った記憶も無い。学校で、しゃべることもなかったのではないか。周囲にいるのは、「観察対象」程度の存在だった。高校の頃、バイトで「笑う」ことを覚えた。今で言うオタクが集まるところの存在を知ってから、しゃべることを覚えたように思う。私は中学の頃、「五カ年計画」と称して、進学や就職などを機会に、自分を改造することを考えた。「自分をプロデュース。」である。
で、自分は変わった。普通の人になれた。
と、勘違いしたのである。
一見、自分は「普通」に見えるようになった。第一印象は、むしろ社交的で明るく見えるようだ。そうでなければ、営業はできないし。自閉NPOの人も、「全然!健常者でしょ???」と言う。しかし、私は、「普通の人」に擬態し続けていただけだったのだ。
いくら空気が読めない、人の感情がわからないなどと言っても、長いこと生きて、何度も失敗していれば、さすがにいろいろわかってくる。軽い心理学の本でも読めば、相手が自分をどう思っているかとか、一番苦手な言外の意思も、理詰めで想像できるようになってくる。アスペルガーの人は、初対面の人、まったくどこの誰かわからない人とは付き合えても、身近な人と人間関係を築くということが苦手だと最近知った。そのとおりだ。私は飛び込み営業は意外と平気。驚くほど豊富な雑学で、楽しくおしゃべりができたりする。しかし、名刺交換をして、次からができない。それでも手探りで、あるいは周囲の助言を聞きながら徐々に良い関係も築けているが、トラブルのほうが数多い。
はあ。ずいぶん自分でもがんばってきたと思ってきたけど、化けの皮は、簡単にはがれる。もう、認めるべきだろう。自閉は、「直る」ものではない。自分で努力して、勉強して、ようやくここまでこられたけれど、まだまだどうにもならない部分がある。これ以上、擬態していると、かえって迷惑がかかる。いっそ、自分の脳のなかにぽっかりと開いた穴のようなものを晒し、「理解を求める」しかないと思う。
そしていっそう、自分が「普通」に振舞えるように、知恵を拝借しながら努力するしかない。
思えば、「苦手だから」と私はいろいろなことから逃げていた。まったくしゃべれないような状況から、アルバイトでにこにこと笑顔を振りまけるくらいになれて、その程度で満足してしまっていたのだ。そのつけは、ちゃんと回って来るものだ。
「あなたは子ども以下!」とののしられるのも尤もである。ただ、本当の子どもと違うのは、ののしる人の苦しみを知ることができることだ。これは、自分が、自分そっくりの子どもを育て、気が狂うほど叱責するという因果を経験したためだろう。ののしられるのはなんとも思わず、ただ、ののしる人の苦しみを想像してひたすら申し訳なく思う。申し訳なく思っているのに、その表情が(私は10年ほど前から自分のことでは泣けなくなり、微笑が顔に張り付いてしまっているのだ)さらに相手を馬鹿にしているように思われて、ますます相手にストレスをかけている。
「15の夜~いじめられているきみへ~」
40代のサテューの物語は、ここから始まる。
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コメント
こんばんは
「ののしる人の苦しみを想像してひたすら申し訳なく思う」とおっしゃっていらして、お気の毒に思います。申し訳ないと思われるのは、悪意や故意の言動ではないからでしょう。
私は気分よく、機嫌がいい人と一緒にいたいと思っています。平和は心を安定させてくれる。闇鍋奉行さんも身近な方々には、怒らず、できるだけ機嫌のよい感じでの注意なり指導なりをお願いしてもいいのでは。もちろん、ご自身も怒らずに。
たくさんの努力を重ねられ、いつもがんばっていらっしゃるので感心いたします。
三寒四温、ご自愛ください。
投稿: アスぺ奥 | 2012年3月15日 (木) 23時49分
アスペ奥さま、ようこそ~
5年前の私は、こうだったんですね…今もまだまだではありますが、自分がダメな分、「個性的」な人たちとは結構うまくいく面があります。
人間、やっぱり個性や相性があるものです。
投稿: 闇鍋奉行 | 2012年3月18日 (日) 23時32分