「聲の形」を読んで
今週の週刊少年マガジンで、読みきりの「聾の形」が話題だというので、読んでみた。
普通の小学校に、西宮という美少女が転校してくる。
彼女は聾唖の障害を持ち、コミュニケーションは筆談で行わなくてはいけない。
やがて彼女の行動に同級生も教師も不満を持ち、それは陰湿ないじめに発展。
主人公の少年はその先鋒であったのだが……
週マガは、時々こういう啓蒙漫画を載せる。以前、アスペルガーを扱った「十五の夜」について感想をここに書いたのを思い出す。
あの作品よりは、問題の本質に迫った、と思った。
障害者が社会で普通に生活するためには、相互の理解が必要なのだ。
「十五の夜」では、奇怪な行動をして嫌われ、孤立してしまう主人公を、「彼はアスペルガー症候群という障害をもっているのです」の一言で他の子たちが理解し、温かく迎えてあげていたが、実際にはそこからが物語りの始まりだろう、と思った。
あの作品よりは、問題の本質に迫った、と思った。
障害者が社会で普通に生活するためには、相互の理解が必要なのだ。
「十五の夜」では、奇怪な行動をして嫌われ、孤立してしまう主人公を、「彼はアスペルガー症候群という障害をもっているのです」の一言で他の子たちが理解し、温かく迎えてあげていたが、実際にはそこからが物語りの始まりだろう、と思った。
障害があるというのなら、そういう専門のところに行って
というのが、普通の人の反応。
アスペルガーなどの発達障害は、程度にもよるが、福祉の対象にならず、専門的な教育を受ける機会もなく、一般社会で「嫌われ者」になりがち、というのが問題なのだ。
西宮さんは知能に問題はなく、親が希望したのか、聾唖学校に行くまでも無いと判断されたのか描かれていないが、普通の学校にやってきた。
というのが、普通の人の反応。
アスペルガーなどの発達障害は、程度にもよるが、福祉の対象にならず、専門的な教育を受ける機会もなく、一般社会で「嫌われ者」になりがち、というのが問題なのだ。
西宮さんは知能に問題はなく、親が希望したのか、聾唖学校に行くまでも無いと判断されたのか描かれていないが、普通の学校にやってきた。
先生の話に反応せず、言葉は不明瞭で、ノートでの筆談でだけコミュニケーションがとれるという。
驚いたが、それを受け入れた健常児たち。
驚いたが、それを受け入れた健常児たち。
しかし、西宮さんは、授業中先生の話が聞き取れないとノートで「今何を言ったのか教えて」と周囲の子たちに聞く。
教科書を読むというのも、他の子たちと同じ様に順番がまわってくる。
不明瞭な言葉に笑いをこらえ、物まねをする子も出てくるが、聞こえない彼女にはわからない。
教科書を読むというのも、他の子たちと同じ様に順番がまわってくる。
不明瞭な言葉に笑いをこらえ、物まねをする子も出てくるが、聞こえない彼女にはわからない。
合唱コンクールで常勝だというこの学校、音程がとれずまともに歌えない彼女は、級友が手を握り、音程を手の高さで伝えて支えたが、入賞を逃してしまう。
そこから、彼女への容赦ない攻撃が始まる。黒板に書かれた文字で、ようやく彼女は、自分がいじめの標的であると知る……
☆ ☆ ☆
これを読んで、「差別やいじめはよくない」というありがちな感想を持つことはないだろう。
なんの配慮もなく障害者を一般社会に入れたらこうなる、健常者は、こんなに我慢している、という怒りさえ感じた。いじめる側の視点で描かれたというのもよかった。なぜトラブルが起こり、何にいらついていじめという暴力に発展するのかが見所だ。
☆ ☆ ☆
これを読んで、「差別やいじめはよくない」というありがちな感想を持つことはないだろう。
なんの配慮もなく障害者を一般社会に入れたらこうなる、健常者は、こんなに我慢している、という怒りさえ感じた。いじめる側の視点で描かれたというのもよかった。なぜトラブルが起こり、何にいらついていじめという暴力に発展するのかが見所だ。
授業中に「今、先生何を言ったの?」というようなことを聞いてまわるのは、障害の有無に関わらず、非常識で迷惑な行動だ。
それを筆談で教えて、となると、相手が授業についていけなくなるくらいの負担になる。
それを筆談で教えて、となると、相手が授業についていけなくなるくらいの負担になる。
そういうことをしてはいけない、と誰も教えないし、「障害」という大義名分の前に、級友たちも本音を言えない。
障害を盾に、……本人も悪気は無く、これまで当然のように守られて、甘やかされ、周りが支えてくれて当然、同じ様に社会生活を送って当然、と考え、行動してきたのだろう。
それが、大きな暴力に発展してしまう。
障害者の社会参画は、相互の理解と配慮が必要なのだ。
一方的に理解と配慮を求める限り、差別やいじめはなくならないだろう。
障害を盾に、……本人も悪気は無く、これまで当然のように守られて、甘やかされ、周りが支えてくれて当然、同じ様に社会生活を送って当然、と考え、行動してきたのだろう。
それが、大きな暴力に発展してしまう。
障害者の社会参画は、相互の理解と配慮が必要なのだ。
一方的に理解と配慮を求める限り、差別やいじめはなくならないだろう。
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コメント
「聾の形」を読んでいないので、何ともですが、聾唖者が、もし、頭脳明晰だとしても、普通学級に転校してくるという事象、そのものが、現実にあるのですかね?その人は、先生の声が聞こえないわけで。教室で座っていても、お客さんですよね?なんか、かわいそうに思うのですが。
世の中には、普通学級にこだわる「親」が結構いるそうです。小学校の教師をしている友人からの話ですが。そう言えば息子の小学校時代を思い出したのですが、運動会で「クラス対抗全員リレー」という競走がありまして。
で、息子のクラスには、「走ることができない」女の子がいたんです。
その子は、100mを歩きました。当然というか、息子のクラスはビリでした。
で、皮肉なことに、うちの息子は、その時点で、学校一、足が速かったのです。
最後、アンカーとしてたった一人で、それでも懸命に校庭を走る姿を見て、親の私は、切なくて切なくて仕方がなかったです。いろんな意味でね。
初めからわかっているのに、こういう種目をなぜ学校がやるのか、その意味がわかりませんでした。
投稿: はやみ | 2013年2月23日 (土) 13時12分
はやみさん、ようこそ~!
補助器具などでほとんど支障なく授業に参加でき、どうしても無理なものは免除というのなら、障害児が普通級に通うのもいいと思いますが、仰るとおり、明らかに無理をさせてまで通わせたら、結局皆が負担に感じるし、本人のためにもならないですよね。
全員リレー…足の遅かった私には恐怖ですわ~
投稿: 闇鍋奉行 | 2013年2月24日 (日) 17時32分
このブログは以前から大きな関心を持って拝見しておりました。何よりもご子息様が自立をされてよかったですね。本当に本当に・・・・。
かく言う私、定年を間近に控えた普通の学校の教師です。三十年以上のキャリアがあります。その勤務経験の中で、様々なハンディを抱えた子ども達の担任や担任外としての関わりを持ってきました。
その経験から言わせて頂けるなら、ブログ主様のような保護者の方は「希有」であろうと言うことです。
現行制度では、例えどのような障害を抱えているお子さんであっても、保護者が「普通学級で」と希望をされれば現場では拒むことは不可能です。
もちろん、そのことに対するこだわりはありません。我々現場の者は「就学指導委員会」で決定されたことを実行する責務がありますから。
ただ、「ではどうするか」が次に来ます。
ハンディを抱えた子どもさんには「特別な配慮」が必要です。では、その「特別な配慮」とはどんなことを指すのでしょうか。
今回「聲の形を読んで」に「障害者の社会参画は、相互の理解と配慮が必要なのだ。一方的に理解と配慮を求める限り、差別やいじめはなくならないだろう。」と書かれたことに私は大きな感銘を受けました。ブログ主様がご子息の担任や管理職との間でどのようなやりとりがあったかは不明ですが、このブログを拝見している限りでは、まず「母親としての関わり」を大切にされてきたことが伺えました。
これまでの私の経験で一番困ったのは、「我が子は障害を抱えている。だからだれよりも優遇されるべきだ。」と本気で考えている保護者がいることです。
私の経験から申し上げますが、「ダウン症」のお子さんがいました。普通、ダウン症のお子さんというのは「暴力的行為」にはあまり走らないものですが、そのお子さんは、同級生や下級生を階段の上で背中を突き飛ばす行為が度々あり、あわや大けがということが何度もありました。
そのことをお母さんに告げたところ、「私の子は障害を持っているが、何の理由もなくそんなことをするはずがない。きっと突き飛ばされた子が、何か気に入らないことを言ったに違いない。」と、取り合ってくれませんでした。
当然被害に遭った子どもの保護者からは「どうしてあんな子を野放しにしているのか」という抗議の声が巻き起こります。
該当の子どもから話を聞いても特別意地悪をしたとかの事実は浮かんできません。
我々現場の意見はこうです。障害を抱えたお子さんを通常の学校で受け容れることについては否やは申しません。しかし、通常の学校で起こるであろう「子ども同士の摩擦」「いさかい」「悪口」・・・これらは「未成熟な子どもの社会」では必ずあることです(一般社会だって必ずあります)。その摩擦やストレスを乗り越えるために話し合いをさせ、子どもなりに納得させ、昇華させること。大人となって社会に出れば、避けられないこれらのストレスを乗り越えさせるための訓練をすることも学校の大きな使命であると考えています。
そのときに「我が子は障害を抱えているから、他の子が我が子に合わせるべきだ。」では双方にとって何のメリットもないばかりか、その子らが大人となった時に(つまり、先生と言われる人が「●●ちゃんは特別な人だから、みんな理解してサポートしましょうネ」というブレーキがなくなったときに)、「あのヤロー!」と言われる時が必ず来るというとです。悲しいことですが大人が(つまり教育が)できることの限界がここにあるということです。(実際、そういう例を私は見ています。)
子どもだって「自我」はあります。「何で●●ちゃんのために私たちだけが我慢しなきゃならないの?」という気持ちを「持つな」というのは「逆差別」にあたるでしょう。また、我々には「特別な配慮を必要とする子ども」に対する配慮とともに、他の健常児の学習面・生活面・人間関係面で、正常な状況を保証するという義務もあります。
長くなってしまいましたが、私の言いたいことは、ブログ主様の今回の「障害者の社会参画は、相互の理解と配慮が必要なのだ。」というご意見に心から賛成するということです。そして、そのご意見は、ご子息と常に正面から向き合われ、死にものぐるいで我が子のためにと頑張ってこられたブログ主様であるからこそ言えることだと思うからです。
どうぞ今後ともご子息のために頑張って下さい。心から応援しております。
投稿: 何とぞ匿名でご容赦を | 2013年3月 8日 (金) 22時36分
何とぞ匿名でご容赦を さんようこそ~!
貴重な現場のご意見、ありがとうございます。
あの、「一方的な…」は、自分自身への戒めの意味もあって出た言葉です。
一見、普通に見えるのに、実は当たり前のことが出来ない。努力しても、普通にはなれない。そんな自分が周囲を苛つかせ、暴力に走らせてしまう……
障害は、本人のせいではない。
だけど、それにあぐらをかいてはいけない。
少しでも、人の迷惑にならないように、何か問題を起こしたらきちんと戒める…それができなければ、子どもを学校や集団生活に向かわせることも出来ないでしょう。
障害というほどではなくても、「やんちゃな子なのでご迷惑をかけはしないかと…」
「だらしなくて、先生にはご迷惑をかけるかと…」などと、保護者会で自己紹介するのが普通。
でも、本当に何か問題を起こしたら、親はもちろん、子どももきちんと謝罪する、反省させて二度としないようにする、というのがその子が社会できちんとしていくための大事なしつけ。
もしも「うちの子はやんちゃなので怪我くらいさせます」と、当然のように言い放つ親がいたらおかしい。
障害があるのは仕方ないとしても、それで人に迷惑をかけないようにできるか、相手に心配りできるかが大事。出来ること、出来ないことをきちんとさせ、基本的には自立できるようにしなければ、この作品のように、周囲を苛立たせ、攻撃の対象になってしまう。
いじめを見逃してもいけないけど、一方的に被害者意識に走ってもいけない……障害は免罪符ではなく、出来ることと出来ないことを見極めて、その子にとって生きやすく、社会参加して自立するための道を探すための判定なのだと思います。
私も息子も、障害と健常のボーダーラインで、福祉の手助けも受けられず、結局自力で問題を解決しなくてはいけないのですが、それでも自分の欠点を知り、それを何とかして補って、社会参加していくしかない。
幸い、息子はこれでも私よりも自閉度が軽く、感情のコントロールをだいぶ出来るようになってきました。いろいろ個性的ではありますが、一見凄い好青年と言われます。子どもの心配より、今は自分の心配をしないといけないな、という今日この頃です。
投稿: 闇鍋奉行 | 2013年3月13日 (水) 00時03分